2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧

平成箱根駅伝を振り返る18〜19

設楽啓太 悠太07年越生高入学。10年東洋大入学。14年Honda入社。設楽は双子の兄、設楽啓太と越生高時代から頭角を現す。高校駅伝は服部翔太(現Honda)率いる埼玉栄高に敗北を喫していたが、3年時に埼玉県枠が2枠になり、越生高初出場を決める。 二人は揃って…

平成箱根駅伝を振り返る17

cm cm箱根駅伝は87年からテレビ放送が始まった。その時から1番のスポンサーとして参加しているのが、サッポロビール。またサッポロビールは箱根駅伝放送中に味のあるcmを作る。 私が一番好きなcmは、17年の箱根駅伝で流れた、今井正人や佐藤悠基、渡辺康幸ら…

平成箱根駅伝を振り返る14〜15

藤原正和続き。 16年4月に中央大陸上部長距離部門監督に就任した藤原。しかし、本人は当時の部活の雰囲気を同好会並みと感じ取っている。 就任直前の箱根駅伝では16位。更に12年の総合8位を最後に、13年は5区途中棄権、14年は15位、15年は19位と過去最低順位…

平成箱根駅伝を振り返る12〜13

藤原正和96年西脇工高入学。99年中央大入学。03年Honda入社。16年現役引退、中央大陸上部長距離部門監督に就任。 高校駅伝は3年生で一度出場し、西脇工高2年連続優勝に貢献。中央大入学後は、一年時から三大駅伝に出場し、長距離区間を任される。 箱根駅伝で…

平成箱根駅伝を振り返る9

運営管理車も平成になってから導入された。正確には03年大会から。 実は昭和から平成初期に掛けて、ジープで選手の後を走るという事はあった。しかし、交通事情の悪化からジープは廃止され、監督達は一つの車に4人程纏められて、監督車に乗せられていた。 そ…

平成箱根駅伝を振り返る8

給水も、97年大会から行われる様になった。1920年から96年迄は、実は給水は認められていなかった。何故、給水が行われる様になったのか。一つの理由としては熱中症の知識がスポーツ健康学内で広められて行った事。 95年のユニバーシアード福岡大会の女子マラ…

平成箱根駅伝を振り返る7

平成箱根駅伝になって変わった事1 陸上の虎解説 今では当たり前に見られる箱根駅伝の風景も、実は平成になってからの物が多々ある。 一つは、外国人留学生の起用。これは平成元年大会で初めて山梨学院大が、オツオリを華の2区で使った。彼は8人抜きを達成し…

平成箱根駅伝を振り返る5〜6

佐藤悠基02年佐久長聖高入学。05年東海大入学。09年日清食品入社。入社後は、世界陸上大会、ロンドン五輪の5000、10000m代表に選ばれる。そして、トラックで磨いたスピードを生かし、マラソンに挑戦。30km過ぎからの失速が課題だったが、18年に東京マラソン…

平成箱根駅伝を振り返る3〜4

今井正人 00年、原町高入学。03年、順天堂大入学。07年、トヨタ自動車九州に入社。高校駅伝での出場歴は無いが、彼は元祖山の神と呼ばれ、箱根駅伝で大いなる成績を残した。 一年時に、上り坂を練習で走っていると、澤木啓祐総監督から「お前は5区!」と言わ…

平成箱根駅伝を振り返る1、2

渡辺康幸89年市立船橋高校入学。92年早稲田大学入学。96年sb食品入社。04年引退、SB食品退社後、早稲田大学陸上部長距離部門監督就任。 最初の3年の箱根駅伝はシード落ちの時代があったが、07年にシード復活。08年には往路優勝、11年には大学駅伝三冠を達成…