平成箱根駅伝を振り返る12〜13

 

 

藤原正和
96年西脇工高入学。99年中央大入学。03年Honda入社。16年現役引退、中央大陸上部長距離部門監督に就任。

 

高校駅伝は3年生で一度出場し、西脇工高2年連続優勝に貢献。中央大入学後は、一年時から三大駅伝に出場し、長距離区間を任される。

 

箱根駅伝では1年時5区区間賞(新)。2年時の箱根駅伝の5区では、風が吹き荒れる中、順大の奥田真一郎と法政大の大村一(現塩尻市役所)と死闘を繰り広げ、3位で受け取った襷を往路優勝まで持っていった。翌の復路では順大に逆転を許し、総合では3位に終わる。

 

3年時01年のユニバーシアード北京大会では、ハーフマラソン優勝。しかし、箱根駅伝では5区区間6位と振るわなかった。

 

4年時、箱根駅伝て藤原は兼ねてから希望していた2区を走る。その時は駒大の松下龍治や山学大のモカンバらエースが揃う中で一年時以来の区間賞を獲得。戸塚中継所に35年振りトップで襷リレーをした。勢いそのままに、パリ世界陸上代表選考レース、琵琶湖毎日マラソンで日本学生歴代最高記録をマーク。見事パリ世界陸上ラソン日本に選ばれる。

 

03年、パリ世界陸上ラソン代表に選ばれ、Hondaに入社した藤原。しかし、右腸攣靭帯炎になり、日本選手権、世界陸上を欠場してしまう。以降は思う様に走れない日々が続き、NY駅伝も欠場が見られたが、08年の本大会では7区区間賞。10年の本大会ではエース区間の4区を走り先頭で襷を運ぶなど、Hondaの入賞に貢献。

 

そんな中11年の東京マラソン。雨や雪が降り、20kmの通過が61分とスローペースの我慢のレースを耐え、40km過ぎから抜け出し初の優勝を手にする。

 

12年の東京マラソンでは、20km過ぎに遅れて31位。

 

13年の琵琶湖毎日マラソンでは35km迄は戦闘集団を走り、徐々に後退して行くも、優勝とは17秒差、日本人一位でゴール。モスクワ世界陸上の標準派遣記録には及ばなかったが、10年振り、2度目の世界陸上ラソン代表に選ばれる。しかし、モスクワ世界陸上本戦では、20km過ぎで遅れ結果は14位。

 

その後も2年後の北京世界陸上代表に選ばれるも21位。16年の琵琶湖毎日マラソンで、リオ五輪の代表を狙うも疲労骨折で欠場。そのまま引退。そして中央大陸上部長距離部門監督に就任する。

 

続きはまた次回