平成箱根駅伝を振り返る14〜15

藤原正和続き。

 

16年4月に中央大陸上部長距離部門監督に就任した藤原。しかし、本人は当時の部活の雰囲気を同好会並みと感じ取っている。

 

就任直前の箱根駅伝では16位。更に12年の総合8位を最後に、13年は5区途中棄権、14年は15位、15年は19位と過去最低順位と低迷。更には16年には28年振りの復路鶴見繰り上げスタートに遭う。

 

その原因は原付バイク所有を許可していたり、門限を守らなくて良い日が月に4回と、陸上部の規則自体が14年前よりも緩くなっていた事。藤原はまず規則を改定した。

 

しかし6月、全日本大学駅伝予選会では、20チーム中18位(2校棄権。)と苦しい結果に終わる。

 

そこで次に、当時一年生の船津彰馬(現4年)を異例の主将に抜擢。再建を目指した。そして16年93回箱根駅伝予選会。中央大は最初は出場圏内にいたものの後半失速。総合11位で89年連続出場を逃す。10位日本大とは44秒差。その時の主将船津の堂々とした挨拶も話題になった。

 

2年目も船津を主将に置いて再建を目指した藤原。しかし船津が中々結果が出ずに苦しめてしまう。そんなチームが上手く上昇しない中出場した17年6月、49回全日本大学駅伝予選会。そこで出場迄後一歩の10位、出場こそ逃した物の、部員達が成長を実感した。その後も夏合宿は一人あたり100km以上走るなど充実した。

 

そしてリベンジを懸けた18年の94回箱根駅伝予選会、中央大は3位で2年振り出場を果たす。本戦では往路こそ10位で折り返した物の、復路は18位に終わり総合15位。

 

そして一年から主将を務めた船津をここで解任し、新たに関口康平(当時4年)に主将を任せる。

 

関口体制で挑んだ50回全日本大学駅伝予選会、しかし、それは1組目で無残にも出場の夢は消される。主将の関口が脱水症状で棄権してしまった。

 

一方、95回箱根駅伝予選会は8位通過。本戦では中山顕(現Honda)、堀尾健介(現トヨタ自動車)の活躍で戸塚中継所迄は4位、しかし3区以降は失速して総合11位。13年から7年連続の予選会周りとなった。

 

しかし、19年3月の東京マラソンでは教え子の堀尾健介が、雨の降りしきる中、日本人トップの2時間10分台でゴールしMGC出場権を獲得。

藤原の夢は後輩であり、教え子の彼らに引き継がれる事になった。。

 

藤原正和 三大駅伝全成績

            出雲                 全日本                  箱根

1年   5区区間3位     8区区間4位   5区区間1位●

2年   5区区間2位     8区区間3位    5区区間2位▲

3年   6区区間3位     8区区間4位    5区区間3位

4年   3区区間2位     2区区間9位    2区区間1位

●は区間新記録を樹立した事、▲は往路優勝を果たした事を示す。

監督就任後の成績

16年 全日本大学駅伝予選会 18位

16年 箱根駅伝予選会 11位

17年全日本大学駅伝予選会 10位

17年箱根駅伝予選会 3位→15位

18年全日本大学学駅伝予選会 途中棄権

18年 箱根駅伝予選会 8位→11位

→後ろの順位は、本戦での順位を示す