平成箱根駅伝を振り返る9

運営管理車も平成になってから導入された。正確には03年大会から。

 

実は昭和から平成初期に掛けて、ジープで選手の後を走るという事はあった。しかし、交通事情の悪化からジープは廃止され、監督達は一つの車に4人程纏められて、監督車に乗せられていた。

 

それが95年から02年迄に起こった途中棄権を受けて再び復活した。だがこの場合はジープでは無く、提供スポンサーの車を用いている。今年はトヨタヴォクシーやノア、審判車にはプリウスが用いられた。

 

また、駅伝ファンの中には監督からのマイクを使った、走っている選手への言葉を楽しみにする人がいる。代表的なのは、駒澤大大八木弘明監督の

「漢だろ!」宇賀地強(現コニカミノルタ陸上部プレイングコーチ)や村山謙太(旭化成)も「これで力が出た」と語っている。しかし、最近も彼は少し大人しくなったか?と思う。60歳を過ぎたせいか?別に悪くは無いと思うが。

 

18年大会では、苦戦するエース工藤有生(現コニカミノルタ)に、「最後だよ!」と声を掛ける姿に絆を感じ涙した。だがそれと同時に、少し大人しくなった気がして寂しい気もした。

 

法政大の坪田智夫監督や中大の藤原正和監督の方が今は元気良い。青学大の原晋監督は、走っている選手を兎に角褒めている印象。18年大会の早稲田大の相楽豊監督の、永山博基(現住友電工)に対する、「テレビに映ってるからな!カッコよく走れ!」は笑った。箱根駅伝の監督も十人十色。監督に焦点を当てて見るのも面白い。