小出義雄監督を振り返る

小出義雄監督を振り返る


先週、お亡くなりになられたマラソン指導者の小出義雄監督。そこで今回は小出義雄監督を振り返る。と言ってもワイドショーで放送してた内容を此処で書いても面白くないので、小出義雄箱根駅伝という事で。小出が最初に箱根を走ったのが1962年大会。順天堂大で2年時に5区で区間10位。総合11位。3年時に8区区間3位。総合5位。4年時に8区区間5位。総合5位。今、順天堂大の陸上部部長をしている澤木啓祐氏と共に走った事もあったが、まだ彼が頭角を現す前だったので、優勝とは縁が無かった。因みに順天堂大は翌年に初優勝している。小出が卒業してから15年後、澤木から監督代行の依頼を受ける。これも面白くて、澤木は厳しく指導していたのに対して、小出は兎に角褒めて気持ちを乗せて、更に走られるというスタイル。当初選手は違いに戸惑ったそう。その年の箱根は往路の出遅れが響いて総合2位。結局、順天堂大の監督をしたのはその一回きりだった。その後市立船橋高校の陸上部監督になって、中学生の大会を観に行った時、あの男と出逢う。市船の監督時代に会ったあの男こそ、渡辺康幸(住友電工監督)。渡辺の才能をいち早く見抜いた。小出に声を掛けられた事がキッカケて市船に進学した。昨日、箱根での優勝に縁が無かったと書いたが、渡辺が入学する3年前1986年に市船高校駅伝優勝に導いた。その後、渡辺が入学する年にリクルートランニングクラブ監督に就任したので、実は渡辺を指導した事は無い。そして教え子の有森裕子氏を育て上げ、バルセロナアトランタ五輪でメダルを獲得し、シドニー五輪では高橋尚子氏が金メダルを獲得。男女合わせてマラソンの金メダルはこれ以降無い。「楽しい42kmでした」という高橋の言葉も印象強い。
今でこそ、褒めて育てる事が大事と言われているが、小出の時代はスパルタが主流。そんな中で小出スタイルを貫いたのは、それだけ志があったという事。指導者としても選手としても学ぶ事が多い。指導は大変だけど、それでも粘り強く待ってみる。走るのは私では無く生徒だから。人生も同じ。親や先生がアドバイスはくれるけど、走るのは自分だから。正の動機付けはやはり大事。